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名無し

Author:名無し
今年の戦隊シリーズ最新作「ゴーオンジャー」が結構面白い。
そこで思い立って戦隊シリーズの歴史を自分勝手に脳内補完してまとめてみようかと思う。かなり勝手な思い込みが多いのはご了承のほどを。

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閑話休題その1
閑話休題その1

ヒーローというものは一般の人を超える知識や能力を駆使して社会にとって有益な行為を行う存在であり、だいたい神話や物語などに登場してくるものである。実在の人物もヒーローとして扱われるが、それはだいたい虚実織り交ぜて物語化された文脈の中で語られることが多い。もちろんその物語化された文脈が事実にほぼ合致した内容であったとしても、それはノンフィクションという名の一種の物語に過ぎないのであって、その実在の人物の行為そのものがヒーローとしてダイレクトに捉えられることというのは、あまり無い。

いや、そのような捉え方を出来る人というのは少数ながら存在し、そうした少数の鋭い感受性を持った人が、たまたまヒーローたり得る資質を持った人物のヒーロー的な行為に触れる機会を持ち、たまたま一定の表現能力をも有していた場合に、彼によってヒーローの物語は紡ぎ出されて、その物語が人口に膾炙されることによって、その中でヒーロー像が育っていくのである。

そうしたヒーロー物語の作り手は何も1人である必要は無く、ヒーロー的人物の行為に触れてそれを単に記録するだけの者もいれば、それを単に他の人々に伝えるだけの者もおり、そしてそうした一次情報を又聞きしてそこから何らかの感銘を受けて物語を構築する者、そしてそれをまた人々に広めていく者、それに更に新たな物語を肉付けしていく者など、無数の人間がヒーロー物語の構築に関与して、そうして1人のヒーローが生まれていくのである。



例えば、イチローの1打席を見て、それが見事なクリーンヒットであったとしても、そのバットスイング、打球の放物線だけ、つまり目の前で起きた事実それだけを見て、驚きや爽快さを感じたとしても、それだけで彼をヒーローと認識することは出来ないだろう。彼の行為がどれだけ有益であるのかについては、その打席の意義、そのヒットの意義についての補足情報があって初めて理解出来るのであり、また彼がどれだけ一般を超越した能力を有しており、それをどのように活用してきたのかという背景説明的な物語があって初めて、彼のヒーロー性というものは理解出来るのである。

そのためにはテレビ中継のスタッフだけでなく、彼や彼の友人や関係者などに取材を敢行したスポーツ記者や、それを記事化や映像化するに際して動いた人々、それらの情報に接した上でテレビ等の媒体でイチローについて様々なコメントを残した野球関係者たちなど、実に多くの人間がイチローがヒーローであるという物語の構築に関与しており、そうなってくると、それらのプロセスとイチロー自身の行為との間にはほとんど無関係なものや相矛盾する物も多く存在するであろうし、明らかな勘違いや錯誤や虚偽も混じっていることだろう。つまりイチローのヒーロー物語はイチローの実像とは無関係に一人歩きしているのであり、しかしそうした物語を通してしかヒーローとしてのイチローを認識出来ないのだとすれば、ヒーローとしてのイチローという存在は実在のイチローとは別個のフィクション的な存在であるということが出来る。

実際、私達が聞かされてきたヒーロー物語の中のイチローと、たまたま見た打席で無様に三振するイチローとは別存在のように見えるのであり、しかし三振もするしエラーもするのがイチローの実際の姿なのであるから、三振もエラーもしないかのように語られているヒーロー物語の中のイチローのほうはフィクションの存在であるといえる。つまり、たとえ元々は実在の人物であったとしても、ヒーロー物語の文脈で語られた場合には、そのヒーローは基本的に架空の人物と同等と見なしてもいいということである。

もちろん「自分はそんなフィクションは信じない。実在のイチローしか認めない」と主張するのは自由である。しかし、そのように主張する人がイチローの近親者や友人でもない場合、果たして本当にイチローの実在の全てを知り得ているといえるのか甚だ疑問である。彼の認識している「実在のイチロー」というものもまた人口に膾炙した物語を出典としたイチローではないのだろうか。まぁそういう彼でも「三振もエラーもしないイチロー」という物語の荒唐無稽を指摘して否定することは可能ではあろう。しかし、それは「自分はそうした物語には与しない」という宣言でしかなく、そうした荒唐無稽な物語が存在すること自体は認めざるを得ないのではないだろうか。ならば自分の信じるイチローの物語だって同じように誰かによって荒唐無稽視されて否定される可能性のある一種のフィクションであることも認めざるを得ないであろう。結局はヒーローとしてのイチローは須らくフィクションの存在に過ぎないのである。そのことを最も正確に認識しているのは他ならぬイチロー本人であろう。

また、ヒーロー物語の構築のプロセスは現時点でのイチローの事例のように短期間で済むものばかりとは限らない。例えば長島茂雄という実在の元プロ野球選手のヒーローが存在するが、彼についての物語の再構築は現役引退から34年が経った現在でも進行中であり、定期的に刷新されている。また「燃える闘魂」アントニオ猪木という往年の格闘技ヒーローも存在するが、彼に関する伝説も常に刷新され続けている。おそらく長島にしろ猪木にせよ、彼らの死後には更なる伝説の神聖化が図られ、かなりリアリティから離れていくことが予想される。

現在でも既に故人となっている、比較的没後間もないヒーローの例として石原裕次郎や美空ひばりに関する物語や伝説は、既にかなりリアリティから遠い位置にあるといえる。もちろん彼らに批判的な人も存在はするのであるが、それでも彼らについて語られる物語の多くは、完全無欠かつ荒唐無稽な、まるで生ける神であったかのような生涯の物語となっている。彼らに批判的な人も、彼らが現にそのようにして神のように崇められているという事実は否定することは出来ないであろう。

例えば沢村栄治という日本プロ野球草創期の投手がいる。彼が亡くなって60年少し経つのだが、彼は間違いなく伝説的な実在のヒーローである。しかし現在、彼について語られる伝説は「時速160km.の速球を投げた」だの「三段に落ちるドロップを投げた」だの、ちょっと常人とは思えないようなものが多い。これらを野球関係者が大真面目に主張するのである。実際にこの目で確かめようにも、沢村氏自身はとっくに亡くなっており、確かめようもない。こうなると何が真実で何が伝説なのか分からなくなってくる。確かに沢村栄治という投手はプロ野球草創時には存在したのであろうが、少なくとも私の知る沢村栄治というヒーローは、実在した沢村栄治とは別個の、架空の存在であろうと思う。

つまり、私の中では沢村栄治というヒーローは、例えば「巨人の星」の星飛雄馬や、「侍ジャイアンツ」の番場蛮などと、それほど大差ない存在なのである。そして同様に、60年後の人々にとって長島茂雄というヒーローは、そうした限りなく架空に近い存在になっていることであろう。

沢村栄治のように亡くなってしまえば、もう実在の姿を確かめることも出来なくなり、伝説を信じる信じないは別にして、とにかく伝説をただ聞き入るしか出来なくなる。結局は「伝説上の人物」としてそのヒーロー像を受け取っていくしかないのだ。VTRが残っていたりしても同じことであって、それは切り取られた断片に過ぎない。そんな程度で伝説化が防げるのであれば、亡くなった映画スターが伝説化していっているのはどう説明するというのか。

いずれはイチローも長島茂雄も沢村栄治や石原裕次郎のように伝説上のヒーローになっていくのである。いや、誰もが死ねば伝説上の存在になり得るのであるが、その伝説が長く語り伝えられるには、やはり卓越した能力で社会にとって有益な行為を行ったというヒーローとしての実績が語り伝えられる必要があるのである。イチローや長島茂雄の物語にはそうしたヒーロー物語としての資質がそれなりに見込めるので、ある程度語り伝えられていく可能性はあるだろう。また、途中で大胆な脚色が加えられることでそのヒーロー性が実在の彼らを離れて増大していって、未来において巨大なヒーロー像を形成する可能性もある。しかし、そうなった場合、もうそれは実在のイチローや長島茂雄ではなく、架空の物語の登場人物としてのイチローや長島茂雄なのであろうし、あるいは彼らの物語から派生した別キャラクターが新たなヒーローとなって、イチローや長島茂雄とは別の名前のヒーローが後世に伝わっていくのかもしれない。

沢村栄治はそのようにして現在にまでヒーローとして伝わっているのであり、彼は約60年前に亡くなった一種の歴史上の人物でもあるので、ならばその約70年前に亡くなっている坂本龍馬という人物も歴史上実在の人物がヒーローとなった典型例であろう。これはかなり分かりやすい例で、私達が知る「坂本龍馬」というヒーロー像は決して幕末の同時代を生きた人々の認識していた坂本龍馬という実在の人物像ではなく、昭和の大衆小説家である司馬遼太郎が龍馬の死後およそ100年後の1962年から1965年にかけて執筆した「竜馬がゆく」というフィクション作品の中において描かれたヒーロー像なのである。

ならば同様に、数多の歴史上の実在人物が後世に脚色された物語や文学作品、口承の中で架空同然のヒーローとして人口に膾炙されてきたといえる。例えば日本においては、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などはまさにヒーローなのであるが、そのヒーロー像もまた司馬遼太郎をはじめとした数多の近現代の大衆小説家の構築したヒーロー像を総合したものに過ぎない。その大衆小説家の先生方も明治時代の講談や江戸時代の講釈、そして少々の歴史的な史料を参考にしたのであるが、それらの大部分も実在の彼らから見れば後世に書かれた物語であり、少数存在する同時代史料もそのほとんどは彼らヒーロー達に遠慮して書かれた半分フィクションのような代物である。

こうした傾向は更に時代を遡った楠木正成や源義経にしても同じことであり、むしろそのフィクション性は強くなっていく。更に歴史を遡っていって聖徳太子や神功皇后、神武天皇なども歴史上のヒーローということになるが、このあたりになると実在すら怪しくなってくる。少なくとも古事記や日本書紀に書かれている内容が彼らの実在の姿そのものだと考える人は現在では皆無であろう。それは昔においても同じことであり、そもそもこのあたりの人物は近代の一時期を除く昔の人々にとっては伝説と実在の間の曖昧な領域の存在であったと考えられる。これが更に遡ってヤマトタケルやオオクニヌシ、スサノヲなどのヒーローとなると、これらはもう完全に神話の世界の存在である。

いや、スサノヲやオオクニヌシなどはまだそれでもちゃんとした固有名詞らしきものが伝わっているだけマシというもので、何らかのヒーロー物語が伝わっていくうちに固有名詞が忘れられてしまったものや、完全にフィクション化して別の名前に変わってしまったもの、何らかの別キャラクターが派生してそっちがメインになってしまったものなど、そういうものの例としては「桃太郎」や「浦島太郎」「金太郎」「花咲翁」や、その他名もないような数多の民話や御伽噺がある。これらも原初的なヒーローの類型に属するものであろう。

つまり、ヒーローというものの原初的形態は、古層の記憶に基づく神話や民話の中に登場してくる英雄や戦士、その他の登場人物たちなのであり、それに加えて歴史上の実在の人物に関する伝承や、それに派生して生じた架空の伝承などの中に登場する実在と架空のあらゆるレベルに跨る種々の登場人物たちも合わせて、そういうものの中で何らかの卓越した能力で社会に有益な行為をしたと見なされた者がヒーローとされたのである。

民話の登場人物の中では桃太郎などは明らかにヒーローの定義に当てはまる行為を行っているが、浦島太郎や金太郎などはちょっと微妙な感じである。こういうものは、もともとはヒーロー的な役割のあったものが抜け落ちたのか、あるいはヒーロー的な物語から派生したキャラクターなのか、それとももともとヒーロー的類型に属さない単なる伝奇的な民話であったのか、ハッキリとは分からない。

とにかく神話や民話、歴史伝承が本来のヒーローの起源なのであり、これらは一応は「事実であった」という建前で語られるものだが、基本的にフィクションの世界なのだといえる。こうした傾向は日本だけではなく全世界共通なのだともいえる。

そして世界の一部の地域では、これらの神話、民話、伝承をベースとして文字を用いた文学作品を形成するようになった。日本文明はそうした幾つかの文明の中の一つであったので、ヒーローの物語は文学作品の中で改めてまとめられることになった。それが「古事記」「日本書紀」などの神話テキストや歴史書、「日本霊異記」や「今昔物語集」などの説話集、「平家物語」「義経記」「太平記」などのような軍記物語などであった。

そして文字を用いて文学作品を作るというのは、単に既存の口承のコンテンツを文字化するだけに止まらず、新たな創造の作業をも可能にした。つまり新たな創作物語が生まれてくるようになり、「竹取物語」「伊勢物語」「源氏物語」などが生まれ、それらの登場人物たちの中でもヒーローの仲間入りをする者も出てきた。何故なら、ヒーローというものは元来フィクション性の高い存在であったのだから、創作物語に出てくる架空の登場人物でもヒーローの仲間入りをする資格は十分にあるのだった。

ならばいっそ最初から架空のヒーローを設定して、それを主人公とした創作物語を作るという試みもなされるようになった。例えば「曾我物語」などがそうであるし、「義経記」や「太平記」などはむしろ歴史伝承の文字化というよりは、そうした架空ヒーローの活躍する創作物語の手法を援用して、ヒーローとして相当に脚色された源義経や楠木正成が活躍する物語として構成されているといえる。

ただ、これらの文学作品は鎌倉時代あたりまでは、まだ上流階級の教養に過ぎなかったのであり、庶民には縁の無いものであったのであるが、室町時代初期に「義経記」と「太平記」が成立した頃から多くの同様の軍記物語が創作されるようになり、これらが「太平記読み」といわれる物語僧によって路傍で読み上げられるようになり、庶民はそれに聞き入るようになる。また太平記は庶民の文字の手習いのテキストにもなり、室町時代から庶民の中の富裕層の識字率が上昇するようになる。また、義経や正成などは能の演目(例:「船弁慶」「桜井」など)にも取り上げられるようにもなった。

この「太平記読み」が江戸時代に入ると、軍記物語を中心に歴史にちなんだ読み物を路傍で読み上げる話芸である「辻講釈」に発展する。泰平の時代になって戦乱の時代の出来事を聞いたり話したりすることが刺激的な娯楽として捉えられるようになったのだ。この「辻講釈」が江戸時代中期になると路傍ではなく常設小屋が建てられて屋内で座って行われるようになり、「辻」が取れて単なる「講釈」と呼ばれるようになり、多くの庶民が聞きに行くようになった。

この講釈で語られるような人気演目や能の演目などの影響を受けて、元禄時代以降に新たに勃興するようになった庶民の娯楽である人形浄瑠璃や歌舞伎の演目が作られるようにもなっていき、18世紀半ばあたりには立て続けに「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」など、名作といわれるコンテンツが成立するようになる。

またこの頃、寺子屋の普及によって庶民の識字率が飛躍的に向上し始め、それに合わせて18世紀終盤の田沼時代には木版印刷技術の発達によって「読本」という印刷媒体が成立するようになった。これはもともと中国の明代に成立した通俗小説であった「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」などの翻訳が主体で、この「読本」の普及によって新たにこうした作品群における中華風の架空ヒーローも日本におけるヒーローとして受容されるようになったのだが、更に「読本」はこれら中国の通俗小説の世界観の影響を受けて日本独自のオリジナルストーリーを創作するようになり、その多くは日本の歴史上の設定をモチーフとするようになった。その最も有名な代表例が「南総里見八犬伝」であり、ここにおいては過去の日本の時代設定の中で完全に架空の存在であるヒーロー達が活躍する。

また、この日本独自の木版印刷技術は活版印刷とは違い、絵も一緒に刷ることが可能であり、しかも田沼時代には「多色刷り」というカラー印刷技術が開発されたためにカラフルな絵入りの書物を作られるようになり、室町時代から編纂されるようになっていた民話や説話などを分かり易い内容に翻案した読み物もこの江戸時代中期以降は「御伽草子」という名で広く出回るようになり、一寸法師や浦島太郎などの、いわゆる昔話系のヒーローも広く人口に膾炙されるようになった。

更にこうした絵入りの出版物として江戸時代後期に最も通俗的なものとして好評を博した「黄表紙」という冊子においては、現代の漫画的表現に近いものが既に見られ、その内容もちょっとした短編SF小説のようなものもあった。ただ「黄表紙」はあまりにも融通無碍で低俗で、ストーリー作品というよりも情報誌に近いものであったので、ここから新たなヒーローが生まれるということはあまり無かった。ただ漫画やSFが近代日本においてすんなり受容されていく基礎が育まれていたという点において注目すべき存在であったという点と、この「黄表紙」のような情報媒体が存在したことによって、江戸時代後期の文化文政時代においては歌舞伎、浄瑠璃、講釈、読本などの戯作類、落語などの様々な大衆文化の間でそれぞれのコンテンツが影響を与え合って、キャラクターやストーリーの共有も起こり、数々のヒーロー像が育まれていったという点においても注目すべきであるといえるだろう。

こうした江戸時代の大衆文化の中で実在や非実在に関わりなく、様々なヒーロー像が育っていったのだが、これらのヒーロー達は単純な勧善懲悪型のヒーローかというと、実は案外そうでもない。多くは全くの娯楽に徹した他愛もないナンセンスストーリーであり、一部の正統派のコンテンツにおいても単純に善が悪を打ち倒してハッピ-エンドというわけではなく、またそういうストーリーをとっていたとしても物語の主眼はそこではなく、運命に翻弄される中で登場人物たちがどのような心情を抱きどのような行動をとるのかについて描くことが主眼であり、そこに自由な発想が認められていたわけでもなく、だいたいは彼ら登場人物の行動が「孝」や「忠」「義」などの儒教的な価値観に見合っているかどうかについて描くことがスタンダードであった。

なぜ勧善懲悪が徹底されないのかというと、まずそもそも日本の宗教は八百万の精霊や先祖霊を神として崇める神道と、この世の実体は全てが空であり万物は輪廻の輪の中で流転すると考える仏教とが習合した神仏習合宗教で、善悪二元論とは程遠いものであるからである。日本において勧善懲悪の思想が強くなっていくのはキリスト教的な善悪二元論を基調とした西洋思想が影響力を持つようになっていった近代以降のことである。中国起源の儒教は善悪二元論を基調としたものではあるが、これは江戸時代の日本においては統治者である武士階級の収めるべき教養の類に過ぎず、しかもかなり神仏習合宗教の影響を受けて変質したものであり、武士から庶民に至るまで善悪二元論がその心情に影響を与えるということはあまり無かったようである。

それでも善を歓迎し悪を憎むというのは人間の本能のようなもので、信仰的な裏づけは無かったとしてもヒーローは勧善懲悪の形式に流れそうなものだが、江戸時代においては幕府当局が庶民が善悪の判断基準を独自に持つことを嫌ったので、あまり勧善懲悪色が強い作品は規制され、ヒーローや敵役などの登場人物の行動を幕府の公式の道徳観である儒教道徳に照らして評価するようなコンテンツが多く作られることになった。これは自由な発想の制限ではあるが、これによって却って安易に勧善懲悪のカタルシスに逃げ込むことなく、善悪を単純に割り切れない複雑な人物造詣を深めていくことが可能になったのであった。これによって例えば「白浪五人男」などのような泥棒や、渡世人のようなヤクザ者をヒーロー視したような異色の作品も成立することになった。

また、幕府当局が政治批判に結びつくことを嫌って同時代の素材を使った作品を厳しく規制したため、江戸時代の大衆の娯楽文学作品はだいたい過去の時代設定を借用したものとなり、江戸時代当時から見れば一種の「時代劇」となり、日本大衆娯楽作品における時代劇をスタンダードとする傾向を生み出すことになった。

この江戸時代の大衆文化の中で日本における庶民に好まれるヒーロー像の原型というものが形成されていったのだが、それはまず絶対的な正義や絶対的な悪というものはなく、それぞれのヒーローが正義と信じるイデオロギーがとりあえずその劇中においては正義なのであって、観客や読者の価値観と必ずしも一致していなくてもよいのであり、むしろ自らの信じる価値観に殉ずるヒーローの純粋さにこそ観客や読者は共感するという、かなり大人の鑑賞姿勢が存在したことが挙げられる。

また、ヒーローが見返りを求めない高潔な精神を持っているというのは古今東西ヒーローの常識であって日本だけの特徴ではないのだが、それでも他国では、ヒーローがそれを望まなかったとしても、最終的には人々はヒーローに感謝するし、王様は彼に称号や爵位を与えたりするし、お姫様は彼と結ばれたりするというようなパターンが多い。しかし日本のヒーローは本当に徹底的に報われない存在で、そういった特典はほとんど得ることは無く、そもそも勝利すら得ることは稀で、だいたいは彼らが敗北していく際のエピソードが物語のメインになっていく。彼は彼の信じる価値観や守るべき者達のために勝ち目の薄い戦いを繰り広げるのであるが、大抵は愚かな上役や仲間に使い捨てにされ、彼の忠義は裏切られて敗れていく。つまり悲劇性が高いのであるが、そうした悲劇の中でもヒーローが高潔な精神や信念を捨てないということが喝采を受けるのである。こうした特徴が日本のヒーローの基本設定となっていくのである。

こうした江戸時代の大衆文化が明治維新後もほぼそのまま継続した。明治維新というのは帝国主義時代に適応するための国家改造を志向した政治運動であったわけだが、その意義をちゃんと理解していたのは当初は一部の政治指導者層だけであり、国民のほとんどは当初は明治維新の真の意味を理解せず、西洋文化に対しても好奇の目で見るだけであった。だから変わったことといえば当初は読本などの戯作文学の描写の中に新しい西洋風の風俗の描写が取り入れられたりするようになったり、幕府の禁制が無くなったので同時代的な設定でのゴシップ的なストーリーも作られるようになった程度のことで、何か新しい枠組みが出来たというわけではなかったのである。維新といっても庶民の暮らしにすぐに大きな変化が訪れたわけではないのである。

そうした近代日本が自由民権運動から帝国憲法の発布を経て19世紀終盤ぐらいには近代国家としての体裁を整えて、同時に清国など周辺国との摩擦も表面化してくるようになると、ようやく国民の中に国家意識や国民意識というものが育ってきて、一部政治指導者だけではなく国民レベルで近代西洋精神を理解していかねばならないという考え方が起こってきた。これが近代日本文学の黎明に繋がるわけである。

その近代日本文学の中心たる例えば夏目漱石や森鴎外や、写実主義だの自然主義だのというような純文学のジャンルというものは要するに「近代西洋精神と日本人はどのように向き合うべきか」という大テーマを追求する一種の思考実験の場のようなもので、一部の知識人階級の閉じられたサークル内で完結しており、庶民の娯楽にはほとんど縁の無いものであった。庶民の娯楽は相変わらず歌舞伎や落語や戯作文学、そしてなんといっても最も身近なものは講釈が明治になって名を改めた「講談」だった。

芝居に関しても、西洋風の舞台劇を普及させようという動きが起こり、これが「新劇」といわれるようになり、これに対して従来の歌舞伎などは「旧劇」といわれるようになるが、知識人階級は新劇を持て囃したが、庶民には相変わらず旧劇のほうが人気であった。こういった日本の知識人階級が受容しようと努めていた西洋の文学や演劇などは、西洋においても割と知識人に好まれるような比較的高尚で難解なものが多く、実際、明治の日本人がこれらの西洋思想を身を持って完全に理解して楽しむことが出来たとは思えず、金持ちや知識人がそのように無理に西洋の文学や演劇などに触れようとしていたのは、なんとかそれを理解出来るようになりたいという願望か、あるいは単なるステータスシンボルとしての意味合いでしかなかったのであり、心の底からそれを楽しんでいたとは思えない。庶民はわざわざそんな苦行に勤しむ理由も無いので、こういった知識人御用達の西洋文物には目もくれなかったのだろう。

まぁこういった近代日本文学、特に純文学にもこの頃はそれなりに重要な意義というものはあったのであろう。しかし彼らの追い求めた西洋思想というものは究極的には善悪二元論であり、それに染まり過ぎた彼ら知識人層が国家指導階級となり、そのために文明間の闘争に巻き込まれて、最終的には彼らは全てを喪って空っぽの存在になってしまうのだが、このヒーローの系譜を追う文中においてはそのあたりはあまり関係は無い。

ただ庶民も庶民でそうした西洋化の流れから完全に自由でいたのかというとそういうことはなく、やはり日清戦争(1894年~1895年)あたりから知識人階級とは別の文脈ではありながらも国民意識は高揚して、西洋諸国のような社会に憧れる風潮というものは生じて、それが彼ら庶民の娯楽の分野でも新たな展開を生み出していったのであり、それは一部では知識人階級の近代日本文学の流れにも関係してくるのである。

その一例で、そしてここにおいて重要なものは児童文学の発生であろう。児童文学は大人社会から子供への啓蒙教育という観点から近代日本文学発生とほぼ同じ時期に発生するようになり、近代文学小説家の巌谷小波が1891年に児童文学に転進して最初の児童文学作品「こがね丸」を発表した。巌谷の場合、その作品の内容そのものよりも、この後、巌谷が1894年から1908年にかけて「日本昔話」「日本お伽噺」「世界お伽噺」などのシリーズを刊行したり、1895年に「少年世界」という雑誌を創刊してその誌上において多くの児童向けの作品を世に出したり、童話の口演や戯曲化を熱心に奨励したりしたことのほうに大きな意義があるといえる。

巌谷の精力的な活動によって古い説話や民話が平易な文体に書き改められて子供たちが読めるようになった。児童文学そのものはこの後は啓蒙的性格が強くなり、ある意味では子供たちにとってはあまり刺激的なものではなくなり、ヒーローの系譜とは無縁のものになっていくのだが、こうして子供たちが物語世界に触れるようになったということが重要なのであって、それまでは庶民の娯楽であるとはいっても所詮は大人の娯楽でしかなかった物語世界を、この児童文学や昔話、偉人伝などをとっかかりとして子供たちが自らの娯楽の世界に組み込むようになっていったということが重要なのである。一旦こうやって物語世界に触れる習慣をつけてしまえば子供たちは逞しいもので、後は大人たちが読ませようとする作品ばかり読むということはなく、独自に自分好みの作品世界を開拓していくものなのである。

また、1882年以降、新聞記者でもあった黒岩涙香はその英語力を活かして海外の小説も翻案小説を新聞紙上に次々と発表していくようになったが、これは純文学の作家たちのような西洋思想の紹介などというような高尚な目的のものではなく、新聞を売らんがための純粋な商業行為であったので、庶民大衆にうけるためにその翻案対象とした小説はミステリー小説、探偵小説、SF小説など、当時の欧米諸国で大衆に人気を博していた大衆小説の類ばかりであった。この涙香が1892年に「萬朝報」を創刊し、ここで有名人のゴシップ記事を書きまくったため萬朝報はバカ売れし、紙面で連載していた涙香の翻案小説も広く読まれるようになった。これが後の日本における大衆小説の勃興に繋がっていくのである。また、涙香は1889年には日本最初の探偵小説とされる「無惨」も創作している。

探偵小説は1830年代にイギリスで司法制度や警察制度が整備され、社会正義の実現こそが善であるという観念が普及するにつれて、また、ロンドンなどの都市化が進んで都市型の犯罪が起こるようになり、それが人々にとっての脅威となったことによって発生してきた新しい小説のジャンルで、1830年代にはイギリスで監獄における犯罪記録を元にして書かれた犯罪小説が一世を風靡し、そこから発展して特定の探偵キャラが登場して事件の解決にあたるという形式の探偵小説の世界最初のものは、エドガー・アラン・ポーの創作した探偵キャラクターであるオーギュスト・デュパンの活躍する1841年の作品「モルグ街の殺人」であるとされる。その後、他国においても同じような社会状況が実現するにつれて徐々に普及していった。日本においてもこの19世紀末のあたりに、それまでのような「孝」や「忠」のような個人レベルでの道徳の達成だけでなく、社会正義を実現していくことこそが必要とされる風潮が生まれてきていたので、庶民の新しい娯楽として探偵小説が受け入れられるようになったのであろう。

またSF小説の先駆者とされるのは1816年に「フランケンシュタイン」を創作したメアリー・シェリーであるが、これはどちらかというと怪奇小説の類のもので、むしろエドガー・アラン・ポーの探偵小説の中でトリックや謎解きに科学的手法が取り入れられていたことに触発されたジュール・ヴェルヌが1865年に書いた「月世界旅行」がSF小説の起源といえるであろう。この「月世界旅行」は涙香によって1883年に翻案されて日本に紹介されている。

ただ、このヴェルヌの小説は産業革命後の時代を背景にして新しい科学知識を駆使した冒険小説といえるもので、現代的に言う「科学そのものがメインテーマとなった空想小説」という意味でのSF小説とは少し違う。そうした意味での本格的なSF小説の起源となるのは1895年にハーバート・ジョージ・ウェルズが書いた「タイム・マシン」ということになる。この「タイム・マシン」も涙香によって「八十万年後の世界」という題で1913年に萬朝報にて翻案されている。ちなみにウェルズはタイムマシン以外にも火星人や透明人間、冷凍睡眠装置、最終戦争など様々なSFのネタを発明している。

こうした探偵小説やSF小説のような大衆向けの小説を掲載する雑誌として、1894年以降、アメリカにおいて蒸気動力の印刷機の普及と安い紙と安い作家とを組み合わせて大量に廉価の娯楽雑誌が作られるようになった。これを総称して「パルプ・マガジン」といって、探偵小説やSF小説だけでなく、歴史伝説、剣士や魔法使い、ファンタジー、ミステリー、スペースオペラ、西部劇、ホラー、恋愛、冒険、ギャング、スポーツ、ハードボイルドなど、ありとあらゆるジャンルの大衆向けの娯楽フィクション作品が掲載され、1920年代から1930年代にかけて最盛期を誇った。この時期、パルプ・マガジン誌上において創作されたキャラクターの代表例としては怪傑ゾロ、ターザン、英雄コナン、キャプテン・フューチャー、フラッシュ・ゴードン、ファントム、シャドウなどがある。

また、アメリカ以外での有名キャラクターとしては、1887年には既にイギリスにおいて名探偵シャーロック・ホームズがコナン・ドイルによって創作され、その後、シリーズ化されて人気を博するようになっており、1899年には日本にも翻案されて紹介されており、またフランスにおいては1905年以降、モーリス・ルブランによって怪盗紳士アルセーヌ・ルパンという人気キャラクターが創作され、このシリーズもまた1918年には日本に翻案輸入されている。また1895年には少年向け日本SF小説の草分け的存在にして戦前戦中期を通じての最高傑作シリーズの第一作である「海底軍艦」(戦後の東宝映画「海底軍艦」とは全く別の内容)が発表されている。

そして、日本では1914年から1924年にかけて大阪の立川文明堂という出版社が少年を対象に廉価版で講談の内容を文章化した文庫本シリーズ「立川文庫」200編あまりを出版し、これが普及することによって講談で語られていたような軍記物や歴史物の物語が少年層を中心に広く浸透していくようになった。この立川文庫で有名になったコンテンツの代表例として「真田十勇士」「水戸黄門」「一休禅師」などがある。また、明治末期から子供向けに駄菓子屋で流通する粗悪な作りの情報誌である「赤本」という形式の冊子が出現するようになり、ここにも講談のネタが文章化されたようなものが掲載されるようになっていた。

また、これと同時期、1913年から中里介山による幕末を舞台とした剣撃を主体とした群像劇を描いた大長編小説「大菩薩峠」が新聞に連載を開始し、これが時代小説、大衆小説の先駆けとされる。この「大菩薩峠」や「立川文庫」などの講談本の好評に触発され、江戸時代以前の時代設定を借りて娯楽を主眼とし、近代小説の手法を駆使した作品を新たに創作していこうという気運が高まり、吉川英治などが執筆活動を開始するようになり、まずは時代小説から大衆小説の歴史が始まることとなった。

こういった時代小説の勃興を受けて新聞などに時代小説が多く連載されるようになり、また時代小説を掲載するために1924年に「キング」、1930年に「オール読物」などの大衆誌が次々と創刊され、これらの雑誌には時代小説だけではなく、黒岩涙香などの系譜を引く探偵小説やSF小説のようなミステリー小説も多く掲載するようになり、これらを合わせて大衆小説というジャンルを確立した。こうした動きは、この大正末期から昭和初期の頃にかけて日本の都市部においても大衆社会が形成されつつあったことに起因するのだろう。

この時期の時代小説の代表作が1924年に第一作が発表されてその後シリーズ化された大仏次郎による幕末勤皇志士の活躍を描いた「鞍馬天狗」シリーズである。またこの時期の探偵小説の代表的作家であった江戸川乱歩は1925年以降、名探偵「明智小五郎」が活躍する一連の作品を発表するようになり、1936年以降は少年向け雑誌において明智小五郎とその助手の小林少年が怪盗「怪人二十面相」と対決する「少年探偵団」シリーズを執筆するようになった。また、シャーロック・ホームズのシリーズに影響を受けた時代小説作家の岡本綺堂が1916年に日本最初の岡っ引き捕物小説「半七捕物帖」の執筆を開始し、これが好評を博したので大衆小説全盛期にはその模倣作も多く作られるようになり、時代小説と探偵小説の融合といえる「捕物帖」というジャンルが成立するようになった。また正統派時代小説の人気作家であった吉川英治は1935年に「宮本武蔵」の執筆を開始し、初めて歴史上の人物や出来事を大衆小説的なアプローチで深く掘り下げる歴史小説というジャンルを開拓して大人気となり、国民的作家となっていった。そして、こうした大衆小説、特にその中でも時代小説の人気が高まるのと連動して、それらが映画化されて上映されるようになっていった。

映画の起源は1891年のエジソンによる世界初の動画映写機キネトスコープの発明にまで遡るが、これは箱の中を覗き込んで動画を観るタイプで、これをフランスのリュミエール兄弟がスクリーン投射型のシネマトグラフに改良して1895年に公開し、しばらくドキュメンタリーの記録映像を人々に見せる見世物として好評を得たが、1902年には初めて複数のシーンで構成され物語構成をもった「月世界旅行」が製作され、この後はストーリー性のある劇映画が多く作られるようになり、1916年に「イントレランス」を製作したアメリカの映画監督グリフィスによって現在に繋がる映画技法の原型がだいたい整えられることになった。

日本では1896年にキネトスコープ、次いで1897年にはシネマトグラフが輸入され、海外の映像を上映する映画興行が行われるようになり、1899年には国産初の映像作品が公開され、同年には日本初の拳銃強盗の清水定吉を題材にした日本初の劇映画「ピストル強盗清水定吉」が製作されている。この後、映画は日本において「活動写真」と呼ばれて、各地で見世物的に興行されるようになって広まっていった。

そうした中、1908年に京都の旧劇の小劇場の狂言方であった牧野省三が活動写真の興行師から映画製作を依頼され、自らの劇場の舞台に上がっていた旧劇の役者を出演させて「本能寺合戦」という作品を作るが、これが日本初の時代劇である。その後、牧野は旅役者の尾上松之助を見出して主演させて映画製作したところ、これが大当たりして、以後、牧野は松之助主演で時代劇映画を製作するようになり、牧野は日本初の職業的映画監督になり、松之助は日本初の映画スターになった。1912年には複数の映画興行会社が合併して日本活動写真株式会社(日活)が創設され、翌1913年には東京に向島撮影所を開設し、牧野や松之助は日活に所属して活動するようになった。そして牧野によって旧劇出身の役者を起用して旧劇の演目を基にして時代劇を製作するという方式が確立されることとなった。

そして1923年の関東大震災によって向島撮影所が機能停止したことによって日活は活動拠点を京都撮影所に移すようになり、ちょうどこの頃、アメリカでパンクロマティック・フィルムが開発されたことでモノクロフィルムの陰影表現が多彩になり、またこの頃から時代小説が隆盛を迎えたことから、時代小説を原案とした新感覚の時代劇が京都製作所において多く作られるようになり、チャンバラ時代劇として大人気を博するようになった。この動きの中心にいたのが日活に所属し後に独立した牧野であり、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門といった旧劇出身の花形時代劇スターを育てた。阪東妻三郎(田村正和の父親)は剣撃王と称され、片岡千恵蔵は宮本武蔵や浅野内匠守を当たり役とし、嵐寛寿郎(森光子の従兄)は鞍馬天狗を当たり役とし、市川右太衛門(北大路欣也の父親)は「旗本退屈男」を演じた。他に「丹下左膳」を当たり役とした大河内伝次郎、「雪之丞変化」で国民を魅了した長谷川一夫、織田信長を当たり役とした月形龍之介などが主なスター役者であった。これらチャンバラ時代劇映画のスターたちが演じた時代劇キャラクター達こそがこの時代のヒーローであった。

これらのチャンバラ時代劇映画は、そもそも最初の映画スターである尾上松之助が派手な立ち回りと誇張された動作で人気を博したという伝統を受けて、筋書きよりも動きの派手さを重視する傾向が強く、そんなに長くない尺の中で物語を完結させなければいけないので、だいたいシンプルで分かりやすい勧善懲悪ストーリーとなりがちだった。これは映像表現というものが持つ宿命的なものなのかもしれない。しかも当初は音声無しの無声映画であったわけだから、映画というメディアの黎明期にはどうしても動きは派手になり、筋書きは曖昧なものになり、映画はそうした傾向を生まれながら持つことになったのであった。

当初は無声映画であった活動写真は、日本においてはスクリーンの横で台詞を代弁したり状況を説明する「活動弁士」という職業が存在していたのが他国に無い特徴であった。これはもともと講談の流れを汲む話芸の一種であろうと思われ、明治の頃から箱の中の絵を覗き込ませたり影絵を見せたりする縁日での見世物などに付随して状況説明を行う話芸が存在し、そうした話芸を行う者が無声映画の普及に伴ってその状況説明係を職業とするようになっていたと思われる。

ところが1932年に日本初のトーキー映画、つまり音声入り映画が製作されると、その後は一気にトーキー映画が主流となり、活動弁士は職を失ってしまった。その活動弁士たちの多くは、とりあえず食っていくために新たに職を求め、弁士時代に培った状況説明の話芸という特技を活かせる職として紙芝居屋を始めることになった。この時代、日本において世界に類例の無いメディアである紙芝居が誕生するのであるが、それは同じく世界に類例の無い無声映画における活動弁士と関係深い存在なのである。

紙芝居屋というのは駄菓子の行商が本来の商いであり、自転車に乗って子供たちの集まる場所に現れて駄菓子を売る仕事であり、その際、駄菓子を買った子供へのサービスとして紙芝居を上演した。つまり客引きのために紙芝居をしたわけである。子供は紙芝居見たさに駄菓子を買うことになる。次に同じ場所に来た時にまた駄菓子を買わせなければならないから、紙芝居もまた続きを見たいと思わせるような内容でなければいけない。そのため、まず内容が面白いものでなければいけないのは当然として、紙芝居は毎回、次回に期待をもたせるような場面で終わりになる。つまり「次回乞う御期待」というわけだ。すると必然的に紙芝居の演目というのは連続ドラマのように長編のものになる。しかも綿密な構成でなければいけない。そうなってくると、これは弁士上がりの紙芝居屋や駄菓子屋に作れるようなものではなくなり、紙芝居作家という専門の製作者が必要になってくる。

だいたい紙芝居は、たかが紙に書いた絵と語りだけで子供達からなけなしの小遣いを毟り取らねばならないわけで、大スターの名声や動画の派手な演出に頼ることの出来る映画などよりも実は結構シビアな世界で、コンテンツの魅力によってもろに左右される部分が大きい。だからとにかく面白いコンテンツであれば何でもありという世界で、そのコンテンツとしては、チャンバラ映画をネタ元にした時代劇もの、立川文庫をネタ元にした真田十勇士などのような忍者もの、大衆小説をネタ元にした少年探偵団もの、更にはそれらを元にしたオリジナルストーリーやオリジナルキャラクターものなど、とにかくジャンルを問わず、しかもこれはネタ元をそのまま引き写したようなものではダメで、ちゃんと紙芝居用にアレンジしなければならない。長編になるのでストーリーも映画のようなシンプルなものではなく結構複雑なものになるし、しかも話だけではダメで、魅力的かつ状況説明的な絵も描かねばならず、ストーリーのどの部分を絵にして見せるのかという構成が最も重要になってくる。

紙芝居とはこうした魅力的なメディアであった。チャンバラ映画や大衆小説がいくら隆盛であったといってもそれはあくまで大人の娯楽であり、そこにおけるヒーロー達は「大人のヒーロー」であった。子供たちはそうした元ネタに登場するヒーロー達には触れることはほとんど無く、子供たちにとってのヒーローというのは、こうした紙芝居を通して知る鞍馬天狗や猿飛佐助や小林少年や明智小五郎などであったのであり、更には紙芝居作家が創造した怪しげなオリジナルヒーローたちであった。その代表格が「黄金バット」であったのだ。

しかし、この紙芝居の製作過程を見てみると、これはもう殆ど長編漫画を描くのとそれほど変わらない作業であるといえる。実際、この紙芝居作家やそれから派生した赤本漫画作家から戦後になって漫画家が生まれてくるのである。紙芝居というのは「無声映画+活動弁士」という動画興行におけるユニットを、静止した絵を使った興行に移し変えて誕生した廉価版の興行形態であり、そこから漫画が派生したとするならば、映画から紙芝居が生まれて、更に漫画が生まれたということになる。

普通は静止画から動画へと進化が起きると思いがちで、最初に絵だけの漫画が生まれ、それをめくりつつ読み上げる紙芝居が生まれ、そしてそれを動画化して映画へ至るというような進化論のほうが自然なように誤解されがちだが、実際にはその逆の流れで、映画から紙芝居が生じ、紙芝居から漫画が生じたのである。それは、まず映画、というか動画撮影機と動画映写機という機械の発明によって人間が「一連の動きのある絵によって物事を表現することが出来る」という事実を発見し、そこからまずストレートにそのまま動画映写機を使って「映画」(特に「劇映画」)という表現形態が発生し、次いで映写機を使わずにその表現思想を別の方法で実現する表現形態として「紙芝居」や「漫画」が発生したからである。

つまり、実際はこれは単に順番が早いか遅いかの違いでしかなく、映画から紙芝居が生じたのではなく、また紙芝居から漫画が生じたのではなく、これらは親子関係ではなく兄弟関係で、みんな実は動画撮影機と動画映写機の発明によって生まれた「一連の動きのある絵を使った表現思想」から生まれてきた同等の存在であったのであり、ただその生まれてきた順番が早かった映画には最初そうした表現に適した才能が集まり、少し遅れて紙芝居や漫画が生じてくると、先発していた映画のほうから人材が流れていくことになり、それが一見「映画から紙芝居や漫画が派生した」というように見えていただけのことなのだ。
私はむしろ、動画撮影機と動画映写機の発明によって人間が夢想するようになった「一連の動きのある絵を使った表現」の最も完璧な形を実現するものは映画よりも紙芝居であり、紙芝居よりも漫画であると思う。だから映画から紙芝居、そして漫画が生じていくように見える流れというのは、一旦は映画という仮の形態に落ち着いた動画表現思想が、より本源的なものへと回帰しようとしていく流れだといえる。

つまり、単に風景を撮影して映写するドキュメンタリー映像やニュース映像などであればともかく、架空世界を創造する劇映画の場合、製作者の頭の中には「こういう映像を作りたい」というイメージというものがあり、そのイメージは現実世界には存在しないものである。例えば主人公の顔は、誰か特定の実在人物を最初からイメージしている場合もあるだろうが、大抵はこの世には存在しない人物の顔である。それを実際に演じる役者を選んでいく過程で、頭の中のイメージに出来るだけ近い役者を選ぶことになるのだが、完全にイメージ通りになるということはない。幾らかは妥協しなくてはならないのだ。

ストーリーだって、とんでもなく綿密かつ膨大なものを構想していたとしても、技術的問題、金銭的問題から尺は限られてきて、その分ストーリーは削減しなければいけない。ここでも妥協しなくてはいけなくなる。また、各々のシーンやカットにおいても、カメラの動き、人物の動き、特殊効果など、製作者の頭の中にはあらかじめイメージがある。しかしそれはまだこの世において現実として具現していないものだから、そのイメージを動画でそのまま表現することは出来ない。そこでそれはコンテという製作者の描いた絵の形で関係者に示されるのだが、実際にそのコンテを基にして映像製作をした場合、そのコンテに込められた製作者のイメージが出来上がった映像で100%再現されるということはほぼあり得ない。ここでも何らかの妥協は必要なのである。

ならばいっそのこと、製作者の描いたコンテをそのまま映写機から映し出してしまえば良いのではないかとも思えてくる。この発想を突き詰めた表現形態がアニメーションである。アニメであれば、登場人物のイメージやシーンやカットのイメージにおいて現実に合わせて妥協する必要は無くなり、より製作者のイメージに近い映像が出来ることになる。しかしアニメ製作には実際は大変な技術が必要であり、また長編アニメを作るには莫大な資金も必要であった。結局は現実的な制約が大きくて妥協していくことになる。

つまり、映画、特に劇映画というものは製作者のイメージにより忠実な完璧なものを作ろうとするならば、本来はアニメーションで製作すべきものなのだ。しかし技術的・金銭的制約が大きいので何らかの妥協を図っていくしかない。そこで、まず「イメージ面で妥協して動きの面で妥協しない」という方向性で妥協したものが役者を使って撮影した通常の「在りもの」の素材を繋ぎ合わせて製作者の脳内イメージの擬似物を作る劇映画の手法で、一方「イメージ面で妥協せず動きの面で妥協する」という方向性で妥協したものが、脳内イメージ通りのコンテ絵を維持しつつそのコマ数を極端に減らして動きを犠牲にして予算を節約した形態であり、この極端なものが紙芝居であり、その紙芝居を表現形式に工夫を凝らして静止画において動きをある程度表現するように改良したものが漫画であるといえる。

つまり、映像芸術の本来の究極の形はアニメーションなのであり、実写映画は実は技術的金銭的制約に対応して仕方なくオリジナル発想のイメージを損なった妥協形態に過ぎないのである。本来はアニメで作るべき作品を、「仕方なく」実写映画で制作しているのである。そしてまた、実写映画とは全く逆方向の妥協形態が紙芝居や漫画なのである。漫画も本来はもっとコマ数を増やして流れるような動きを表現していきたいところなのだが、技術的金銭的制約によってそれが叶わず、あのように平面媒体の上にへばりついているのである。漫画のイメージのまま実写映画の流れるような動きを実現したものこそがアニメーションなのであり、これこそが製作者の意思を現実化する映像製作の究極の技法なのだといえる。

ただ、ここで誤解の無いように言っておくと、ここで言う「アニメーション」というのは、あくまで一切の妥協を排した映像製作の究極の技法というものを想定して、それに「アニメーション」という名を与えているのであって、そんなものは現在の映像製作を取り巻く技術的経済的環境においては現実にはまだ存在していないと言える。強いて言えば、ディズニーや宮崎駿のアニメーションが現在最もこれに近いものであろう。日本の通常のテレビアニメはかなりコマ数が節約されている大きな妥協の産物であり、言わば「動く漫画」の域にあるといえる。だから、現在日本の実写映画が現在日本のテレビアニメに劣る存在であるという意味ではないということは理解してもらいたい。ただ、動きの面では妥協点を抱えている日本アニメや漫画も、イメージの表現や発想という部分では究極の存在である「アニメーション」に近いほどのかなりの強みを持っており、これについては実写映画や実写テレビ番組よりは優れているのもまた確かである。

例えば最近よく漫画原作の実写テレビドラマが多いと言われるが、漫画のほうがオリジナル発想を現実化する力に優れているわけだから、実写のほうがそれを模倣することでその高みに近づこうとするのはむしろ自然なことだといえる。ただ、それは実写というものの持つ技術的な制約を乗り越える行為であるのでかなりの困難を伴うものであり、失敗することも多い。だから漫画原作ドラマは酷評されることも多いのだが、中には成功して漫画世界の再現に成功する場合もあり、そういうものは大抵は高い評価を得ることが多い。これは一見したところ単なる模倣に過ぎないのだが、それでも高い評価を得るということは、漫画やアニメの実写化というものが困難で高度な作業であるという認識が存在するからであろう。逆に実写作品の漫画化やアニメ化というのは、漫画やアニメのイメージ再現能力の本来持つ高さから、さほど難しい作業ではないので、それほど話題になったり高評価を得たりすることはない。

さて、ここで私が述べている「漫画」というものは世間一般の定義とは少し違っている。私の言う「漫画」とは動画表現から派生してきたもので、「動き」というものが前提となっている。言わば「ストーリー漫画」のことを指している。世間的に漫画の起源とされる落書きや風刺絵の類のものは、この「ストーリー漫画」とは別系統のものだと思う。「ストーリー漫画」はあくまで動画表現の一形態であり、「動き」という面で大幅な妥協はしつつも、あくまで一連のコマに及ぶ動きを志向している存在なのである。落書きや風刺絵にはそれが無いのであって、本質的に別個の存在なのである。

風刺絵の類は古来から世界各地に存在し、19世紀に入ると新聞にも風刺漫画が掲載されるようになり、日本にも開国と同時に輸入されていた。しかし、この風刺漫画がそのまま発達してストーリー漫画になったわけではない。風刺漫画は作画法においてストーリー漫画に若干の影響を与えたのみであり、むしろストーリー漫画の登場には映画の発達普及による影響のほうが大きいと思われる。

1916年の「イントレランス」によって基本的な映画技法が完成を見たことを受けて、1910年代から1920年代にかけてアメリカやヨーロッパでは大衆小説を元ネタにしたような連続活劇ものが多く作られるようになった。特にアメリカにおいては1912年にエドガー・ライス・バローズによって書かれた大衆小説「類人猿ターザン」に始まるターザンシリーズが1918年に「ターザン」という名で映画化されて以降、多数の映画が作られていったのだが、そのターザンが1929年にはストーリー漫画として描かれるようになる。これがストーリー漫画の最初の事例の1つである。

同じアメリカでは前年1928年にフィリップ・フランシス・ノーランというSF小説家が書いた小説を元ネタにしてイラストレーターのディック・コーキンズと組んで、タイムトラベルものの冒険活劇であるSFストーリー漫画「バック・ロジャーズ」の新聞連載が開始されている。また1929年にはベルギーの「20世紀子供新聞」にエルジェによるストーリー漫画「タンタンの大冒険」の連載が開始されている。

このように各地で一斉にストーリー漫画が誕生した1928年から1929年というのはどういう時期であったかというと、1927年にアメリカで世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」が公開され、急速に世界中にトーキー映画が普及していき、無声映画が廃れていきつつある時代であった。無声映画というのは物言わぬ画面の中に字幕を挿入して状況説明を行うものであったから、物言わぬ絵の中にフキダシやト書きを書き込むストーリー漫画と手法としては似通っている。つまり、トーキー映画の出現によって廃れていく無声映画的な表現手法が新たな活躍の場を見出したのがストーリー漫画の世界であったのだといえる。多くの無声映画の作者たちはそのままトーキー映画にも順応していったのであろうが、一部の無声映画の製作者たちはストーリー漫画という新たなジャンルを創造して、そこに活躍の場を求めていったのではないだろうか。

こうして1928年以降、多くのストーリー漫画が新聞に連載されるようになり、次いで大衆小説を掲載するパルプ・マガジンの中にストーリー漫画も掲載されるようになった。そして1933年にマックス・ゲインズによって発刊された「マンガ大行進」が、1つの漫画作品と広告ページのみから構成されるという、いわゆる子供向けの「アメリカン・コミックス」という形式の最初の例であるとされる。

1935年以降はアメリカン・コミックスは多く出版されるようになり、数多くのオリジナルキャラクターを輩出するようになっていたが、1938年にSF小説と探偵小説の世界観を融合して、「超人的能力を駆使して悪を退治する」世界初のスーパーヒーローである「スーパーマン」が登場し、これが大反響を巻き起こし、次いで翌1939年には同じくスーパーヒーロー「バットマン」も登場し、これ以後しばらくの間、アメリカン・コミックスの出版社はこぞってスーパーヒーローもののストーリー漫画を製作するようになった。

このアメリカンコミックス(アメコミ)のスーパーヒーロー達の特徴として、例えばスーパーマンはその出自が宇宙人であるとか、バットマンは大富豪が最先端科学で作り上げた特殊スーツで武装しているとか、ヒーロー側は従来の探偵小説の主人公などよりもかなりSF的な設定になって強化されており、それに合わせて悪役側も従来の普通の犯罪者よりも強化されており、狂気の科学者が最先端科学を悪用して悪事を働くというものになっていた。これは、第一次世界大戦における毒ガスや戦車の登場などを通して人々が「科学を悪用すると悲惨なことになる」という科学の負の側面を認識するようになったことが影響しているといえる。しかしそれでも科学の発達による恩恵も目覚しかった時代であったので、そうした科学を悪用する悪者をやっつけるのはやはり科学を正しい目的に使う正義のヒーローであるという設定となったのである。

つまり、ここでは人間外の存在である超人的ヒーロー(スーパーマン)や、生身の人間が強化服で武装したヒーロー(バットマン)や、最先端科学を悪用する狂気の科学者などの類型が既に現れており、これは後の日本におけるウルトラマンや仮面ライダーのような人間外型ヒーロー、戦隊シリーズのような強化服着用型ヒーロー、そして敵組織としての暗黒科学型組織などの原型が既に1930年代から1940年代のアメコミで登場しているということである。もう1つの敵組織の典型である宇宙人侵略型の原型としても、スーパーマンにおいては敵キャラクターとして宇宙人も登場している。また、ウルトラマンに倒されるような敵としての怪獣キャラというのも、この頃のスーパーヒーロー作品には登場はしないが、怪奇小説や怪奇漫画の中で怪物という形で既にその原型は登場していた。ただ、この頃はまだ大規模侵略型の敵組織は現れておらず、スーパーヒーロー作品においても敵はあくまで犯罪者という扱いになっているのは探偵小説の影響によるものであろう。

また、同じく探偵小説の影響として、探偵小説にはつきものであった探偵を補佐する助手やパートナー役がこのスーパーヒーロー達にも付随するパターンも多々見られるようになった。こうした助手やパートナー役のことを「サイドキック」と言うのであるが、それは例えば明智小五郎の助手であった小林少年のように、スーパーヒーロー漫画においても少年のアメコミ購読者を意識して少年サイドキックであるパターンも多くなった。例えばバットマンにおけるロビンなどはその典型例である。この伝統は後に日本の戦後ヒーローにおいても受け継がれ、むしろ当初はこのサイドキックを主人公としたような作品が多く、敵が強力になっていくにつれて、サイドキックの危機を救うために本来のスーパーヒーローが常時登場するようになり、日本にスーパーヒーローが定着していくようになったというような順序であったともいえる。そしてスーパーヒーローが定着してからもサイドキックは登場することは多く、例えば仮面ライダーにおける少年ライダー隊などというものも典型的な少年サイドキックであるといえるし、またゴレンジャーにおけるミドレンジャーなども当初はサイドキック的役割のキャラクターであったと思われる。

また、バットマンなどのアメコミ作品において見られる特徴として、主人公たるスーパーヒーローを見守り支援する年配の理解者キャラが登場することがあるが、これもスーパーヒーローが従来の一般人ヒーローに比べてかなりの装備を必要とし、あるいは正体を秘密にするために一般人の支援を得ることが出来ないために特別な庇護者を必要とすることから生じたキャラクターであろうと思われるが、これもその後のヒーロー達に受け継がれていき、例えば仮面ライダーにおける「おやっさん」こと立花藤兵衛や、戦隊ヒーローにおける戦隊指揮官たちがこれに相当する。

さて、このように、トーキー映画の出現および普及と、ストーリー漫画の出現および普及がシンクロしているというのは、日本において1932年にトーキー映画が出現して以降、急速に普及していった紙芝居という現象も同じ文脈で捉えられるべきものであろう。ただ、日本の場合、ストーリー漫画という形式に真っ直ぐ到達せずに、まず紙芝居という形式が生まれたというのは、日本の無声映画において他国と違って活動弁士という特殊な表現形態を持っていたからに他ならない。つまり、日本の無声映画においては二次元的な「文字の挿入」よりも、もっとライブ感のある「語り」が重視されていたため、それがトーキー映画出現後に他に活路を見出した際に、平面的な「ストーリー漫画」の方向に行かずに、よりライブ感のある「紙芝居」という形態が出現したというわけである。この紙芝居という特殊なライブ感の強い段階を経て漫画が発生した日本漫画は、他国のものに比べてより劇的なものになっていくのである。

しかし、一方ではアメリカやヨーロッパで出現していた「ストーリー漫画」という手法、特に「タンタンの大冒険」のような子供新聞に連載されていたような子供への啓蒙色の強いものに対する興味も日本の児童文学界には存在し、児童文学的な文脈でストーリー漫画の手法も導入され、1930年代には「少年倶楽部」などの子供向け雑誌で「のらくろ」「冒険ダン吉」「タンクタンクロー」などのようなストーリー漫画が連載されるようになっていった。だが、これらの少年雑誌は一般庶民の子供にはあまりに高価なものであり、縁遠いものであった。庶民の子供たちにとっての娯楽はこうした少年雑誌のストーリー漫画とは別系統の、紙芝居や、紙芝居を冊子化したような絵物語や、それを更に詳細にコマ割りした赤本漫画などであった。こうした紙芝居から発展した絵物語や漫画は、駄菓子屋で廉価で売っていた赤本に掲載されていた。

「のらくろ」などの少年雑誌系の漫画が「大人が子供の啓蒙のために用意した優等生的な作品」であったとするならば、この紙芝居や赤本の絵物語や漫画というものは、「子供と同じ目線に立って子供の嗜好に訴えるために努力して生み出された、荒削りで野生の迫力のある生きた作品」であったといえる。つまり、「のらくろ」などは大人が子供を上から見下ろして「まぁ子供にはこういう無難なものでも読ませておけばいいだろう」という思い上がりが感じ取れるのである。今で言えば、とりあえずディズニーのアニメでも見せておけば事足りると考えるような親と似たようなものであろうか。

実際、「のらくろ」や「冒険ダン吉」などは可愛らしい絵で、いかにも無難で、この世の汚い現実とは無縁の存在である。それに比べて赤本や紙芝居のキャラクターは子供向けとはいってもどぎつい絵柄で、ハッキリ言って汚い。しかしこの汚さこそが現実社会そのものだといえる。「のらくろ」などのファンシーな優等生的なキャラクター達は汚い現実をオブラートに包んで見えなくしてしまおうというような「偽善」を感じさせるのである。子供たちはこういう類の偽善には敏感で、すぐに見破ってしまう。

1937年に日中戦争が起きると戦時ムードが社会に広がり、それは少年雑誌にも影響を及ぼした。「漫画で子供を啓蒙してやろう」というような「上から目線」の大人たちの思い上がりは淫靡な形での戦時啓蒙への漫画の利用という形になって現われたのだ。いや、少年たちを軍国少年に啓蒙していこうということ自体が間違っているというわけではない。それに漫画を使うということが悪いというわけでもない。総力戦の時代であるのだから、そういうことも必要であろう。他国だって同じようなことはやっていたのだ。

ただ、そうした戦時啓蒙漫画に当局が「のらくろ」「冒険ダン吉」「タンクタンクロー」、果ては昔話の桃太郎などのようなファンシーな「癒し系」のキャラクターを多用し、実際は悲惨で残酷なものである戦争の現実をオブラートに包んで誤魔化そうとしたことが、非常に欺瞞的で問題なのである。「そのようにして子供たちを騙した」ということを私は問題視しているわけではない。何故なら、子供たちは馬鹿ではないので、そのような稚拙な欺瞞に騙されるようなことは無いからだ。問題は、ちゃんと子供たちに戦争の現実を教えて対等の存在として向き合おうとしなかったことと、このような下らない欺瞞に利用されたキャラクター達の魅力を大幅に損なってしまったことだ。

子供たちは、現実を糊塗するわざとらしい欺瞞宣伝に動員されてあちこちの街角のポスターや媒体の上で見え透いた笑顔を振りまいている「のらくろ」や「冒険ダン吉」などに魅力を感じなくなっていったのだ。「わざとらしい欺瞞宣伝」とは、戦争に負けているのに勝っているなどと宣伝する所謂「大本営発表」のことを言っているのではなく、もっとありふれた戦時宣伝のことである。戦争がシビアなものであり娯楽ではないということぐらい子供だって分かっている。それなのに、「のらくろ」などが行楽気分で戦場に出掛けたりする描写はあまりにも欺瞞的であり、子供はそういう「子供だまし」は嫌悪するのである。現在でもくだらないイベントのキャラクターにドラえもんなどが使われていると何だかウンザリするのと同じである。

そうした、「可愛い」系のキャラを使って戦争の現実をオブラートに包んで誤魔化してしまえるという、当局の子供を馬鹿にしきった欺瞞的手法に子供たちはウンザリしてしまい、その反動として、金色のドクロというグロテスクな面貌以外は特に何の設定も施されていない、単にグロテスクだけが売りという善悪を超越した、紙芝居や赤本において展開された不思議なヒーロー「黄金バット」に夢中になったのだった。「黄金バット」の風貌はまさに「のらくろ」などのファンシー系キャラとは対極に位置し、そのドクロ顔はまさに戦争の時代の現実を映すヒーローとしてピッタリであった。つまり大人の欺瞞や思い上がりに対して子供たちが突きつけたアンチテーゼが「黄金バット」だったのである。そして、そうした子供たちのささやかなレジスタンスが大人に管理された少年雑誌に対抗する「子供たちのメディア」である紙芝居や赤本において展開されたことが、紙芝居や赤本の戦後における特殊な発展を準備することになるのである。

しかし、そうは言っても、戦時プロパガンダに流された子供たちも多く存在したのも事実である。大人だってほとんどが流されたのだから、まぁ仕方ないであろう。初めての総力戦となった第二次大戦は戦時プロパガンダは日本だけではなく、参戦国はみんな同じように行っており、その主力となったのが新聞、そして映画と、1920年代から世界各国で公共放送が開始されるようになっていたラジオであった。政府によるプロパガンダというのは政府による統制を意味しており、統制しやすくするために新聞社や映画製作会社、ラジオ局は統合を促進されて大規模化が進み、しかも政府が資金面でも支援したので巨大化するようになった。ハッキリ言って、映画産業やラジオ産業が巨大化してのは第二次大戦の恩恵であったと言ってよい。1928年に人気キャラクター「ミッキーマウス」を生み出し、1937年に世界初の長編カラーアニメーション映画「白雪姫」を製作したウォルト・ディズニーもまた戦時プロパガンダへは積極的に協力していたが、これも会社経営の維持のためにやっていたことに過ぎなかったようだ。ちなみにテレビ放送は1936年にイギリスでBBCが世界初の一般放送を開始したが、まだまだ受像機が普及しておらず、戦時プロパガンダに使えるような代物ではなかった。

そうした中、アメリカン・コミックスもまた戦時プロパガンダに協力するようになった。1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発するようになると、アメリカでも反ナチス感情が高まり、1941年にはマーベルコミック社から発行されたアメコミ誌において「キャプテン・アメリカ」という典型的な戦時プロパガンダ的なヒーローが登場するようになった。
キャプテン・アメリカは、ナチズムへの義憤とアメリカへの愛国心の塊のような貧弱な青年がアメリカ軍の「超人兵士」を生み出す人体実験に自ら志願して超人的体力を持った完璧な兵士となり特殊スーツを着用して、ナチスドイツがアメリカに対する破壊工作のために送り込んでくる怪人と戦うというヒーローで、今見ると何てことはない普通のヒーローに見えるが当時は画期的なヒーローであった。

それまでのアメコミのスーパーヒーローの戦う敵は社会をはみ出した日陰者の犯罪者たちであり、ヒーローはその連中を懲らしめたり、逮捕して警察に引き渡したりするが、むやみに殺したりはしなかった。しかしキャプテン・アメリカの敵はナチス・ドイツという「世界征服を企む悪の巨大組織」であり、ナチスとの戦いは(第一作発表時点ではアメリカはまだドイツに宣戦していなかったので)非正規ではあったがれっきとした戦争であり、殺し合いであった。

ここにおいて、第二次大戦の戦時プロパガンダの流れの中で初めて単なる犯罪者やマッドサイエンティストではなく、「世界征服を企む悪の組織」というタイプの巨大な敵が出現するようになり、スーパーヒーローの戦いは非日常的な大規模なものとなり、敵を容赦なく殺害するシビアなものとなっていったのである。また、敵の諜報工作や破壊工作を阻止することが主任務であったので、その戦いは一種のスパイ・アクションの様相を呈するようになった。このキャプテン・アメリカというキャラクターは1945年の第二次大戦終結後も冷戦時代にも活躍を続けて共産主義勢力側の破壊工作員と戦っていくことになるので、新たな「世界征服を企む悪の組織」は共産主義勢力ということになり(まぁ実際ほとんどそんな感じだったのだが)、こうした「キャプテン・アメリカ」的なるスーパーヒーローの世界観は戦後もそのまま受け継がれていくことになったのだった。

ただ、終戦直後のアメリカではやはり平和到来の安心感と戦時プロパガンダからの解放感からアメリカンコミックスは戦いの世界よりも楽しく面白い世界を求めるようになり、スーパーヒーローものよりはディズニー作品のような動物ものや、喜劇もの、ロマンス作品、SF、西部劇などが主流となり、スーパーマン以降、粗製濫造気味であったスーパーヒーローはその多くが消えていった。アメリカにおいて再びスーパーヒーローがブームを迎えるのは1950年代にテレビが普及して、テレビドラマの需要が高くなり、映画会社がテレビ放送用に過去の映画作品もリメイクして連続活劇にして放送するようになってからである。その中にスーパーマンなどのスーパーヒーローものが含まれており、1950年代中頃に懐かしさから再びスーパーヒーローブームが起きて、それを受けてアメコミ業界でも過去のスーパーヒーローを復活させる一方で、1960年代にかけて新たなオリジナルスーパーヒーローも作り出していった。

そうした新しいスーパーヒーローの例として、1961年に生まれた「ファンタスティック・フォー」や、1962年に登場した「スパイダーマン」などがあるが、これらの60年代アメリカのスーパーヒーロー達は、時代を反映していたのであろうか、かつてのスーパーマンやバットマンのような超人的は完璧性を備えた存在ではなく、悩んだり葛藤したりするスーパーヒーローとして描かれていた。
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未分類 | 01:15:43 | Trackback(2) | Comments(9)
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2008-10-12 日 06:39:47 | | [編集]
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2008-11-08 土 13:20:45 | | [編集]
踊る腰
腰って勝手に動くもんなんだなw
動かないでねって言われたけどそんなん無理だわwwww
怒りながら喘いでて激しくするから中出ししちまったよw

http://csnpg.net/iz_dl/
オレも気持ちよかったのに、5万ももらっちゃっていいのかね(;=∀=)37345
2009-02-04 水 23:37:32 | URL | たけしんぐ [編集]
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2010-06-14 月 20:58:18 | | [編集]
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2014-07-18 金 23:33:35 | | [編集]
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2014-07-26 土 05:39:31 | | [編集]
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2014-08-08 金 15:06:00 | | [編集]
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2014-08-11 月 15:25:37 | | [編集]
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2014-08-12 火 08:06:04 | | [編集]
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